歴史
熊井實町会長が語る錦町一丁目今昔
江戸時代の何枚かの古地図を見ますと、錦町の辺りは武家屋敷や、度重なる大火の火除地が多くあります。第二次大戦(大東亜戦争)中に防空壕を掘った時、地下1メートル位まで10何層もの焼け瓦などを含んだ焼跡の残土の層が重なっていて、随分と火事があったんだなあと実感しました。江戸末期になると武家屋敷の中にぽつぽつと町人が住み始め、下町の誕生の兆しが見えてきたそうです。
錦町の町名の由来については、一色家の屋敷が二軒あったので二色が転じて錦の町の説や、京都の錦小路にあやかりたいとの願望から名付けたなど諸説ありますが、定かではありません。明治に入り侍制度が廃止されると、下級武士を中心に商店や職人が増え、町も江戸の町から東京の町へと変って行きます。神田橋周辺にあった荷揚場の運送業者が大勢いた名残りで宿から旅館業が、お侍様の頭脳集団からは出版・印刷・製本等の業者が数多く生まれていったようです。
大正デモクラシーの時代には、東京の中心地として人口が飛躍的に増加し、商店や遊技場が増え、さらに職人さんも大勢住む下町錦町が形成されていきます。大正12年の関東大震災で全滅した町も、昭和3年から4年にかけて区画整理事業が完成、ほぼ現在と同じ区画が出来、一時離れていた人が戻ったり、新しい人が越してきたり、以前にも増して賑やかな町になったそうです。出版・製本・印刷業、ハイカラな洋服屋、ハイヤーや円タクのガレージ、そして日常生活に欠かせない米屋・八百屋・魚屋・酒屋・炭屋・菓子屋に混って、洋食屋・喫茶店・カフエー等が店を構え、銭湯が2軒も成りたつ人口の多い町になって行きました。
珍らしいものでは、政友会の溜り場として、時の政治家とその秘書・書生(戦後政界をリードした、大野伴睦氏・小沢佐重喜氏などがおられた)等が集い会合をした松本亭。柔道界では有名な津田柔道々場。菊池寛氏がよく遊びに来た麻雀・ビリヤードがあった福原ビル。区役所・警察署の前ということで代書屋が軒を連ねていたことを思い出します。また、東京の中心という地の利を生かして、種々の団体が集まって来ました。創価学会がこの地で生声を上げたり、天理教東京本部が置かれたり、キリスト教団の本部事務所が設けられたり、諸団体の本部や事務所が数多く置かれるようになり、一層賑やかになりました。
その後第二次大戦で、我が町も再び焼土と化しましたが、戦争が終るやいち早く復興し、以前の勢いを取り戻しました。やがてバブル時代になってビル化が進み、逆に人口減少から昔の様な下町風情が薄れ、少し寂しくなりましたが、残った人々が中心となって、錦町一丁目の氏神様の太田姫稲荷神社の祭礼など、様々な行事を通じて、住む人と働きに来る人が共に心ふれあう、明るい町作りに励んでいる昨今です。
神田橋から望む本郷通りの錦一のビル街 この先は神田川の聖橋。手前、神田橋の向こうは大手町。
本郷通りに面し、警察通りを挟む錦町一丁目町会 大通り沿いはビル街だが、住民は下町の心意気。